隠れ京都案内>東山周辺>元和キリシタン殉教の地(川端正面・正面橋)
執筆者: 木ノ下 千栄(きのした ちえ) | ||||
◆都・京都でのキリシタン弾圧
慶長17(1612)年、徳川幕府はキリシタンの大弾圧を開始し、2代将軍・徳川秀忠は、2度目の「キリシタン禁令」(1613年)を布告しました。この頃から、京都にあったとされる慶長天主堂をはじめ、京の内外に散在していたキリシタン教会を焼き払わせるなど、急激なキリスト教の禁止が行われました。
そして、元和5年(1619)年、京都が大弾圧のさきがけ地となります。キリスト教迫害の強化に伴い、63名の一般信者が捕らえられ、小川牢屋敷に投獄されました。そのうち8名は、劣悪な収容環境のために獄中で死亡したといわれています。
その結果、同年10月6日に、52名のキリシタンは9台の大八車に積み込まれ、市中引き回しの上、現在の正面橋のあたりに連れて来られました。河原には27本の十字架が方広寺の大仏と対峙するように建てられていました。刑場には、入洛した秀忠をはじめ、家臣や町人の見物者が大勢集まっていたそうです。
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