創業 慶応元年 京菓子の老舗 甘春堂
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和菓子辞典「職人さんが教える京都の和菓子」

職人さんが教える京都の和菓子

みなさんがよく知っておられる和菓子には、それぞれ由来や故事に因まれたものが多くあります。
ここではそんな親しみぶかい和菓子たちの歴史や秘密を探っていきましょう。和菓子をいっそう楽しんでもらえますように…。

●桜餅●

 享保2年(1717)桜の名所として知られた江戸向島の長命寺の境内で、同寺の門番であった下総国、銚子の山本新六が売り出したのに始まります。5代将軍綱吉の元禄年間、向島堤の数百本の桜の木の落葉の掃除に追われた山本新六が、この葉をしょうゆ樽に漬けて売り出しました。しかし、すぐに飽きられたので、桜の葉を塩漬けにし、小麦粉溶いて薄く白焼きにした皮に、小豆のこしあんを包んで2つ折りにし、桜葉を塩抜きにして包みました。(皮は着色しないのが長命寺の桜餅の特徴でした)これがたちまちのうちに人気を博し、江戸名物の1つになりました。葉の香気が餅に移り、その淡雅な様子は春の味わいとして、花見客に大歓迎された。その後桜餅は大いに発達し、餅をもち米にしたり、道明寺にしたりされて、270年余り人気を保ち、現代に至っています。

京わらび餅(写真)

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茶房にてお召し上がりいただけます

●わらび餅・葛餅●

 葛根から葛でん粉をつくる技法は古代からあったが、菓子に利用されるようになったのは室町時代ころとされています。足利時代から江戸時代にかけて残された餅菓子の一種で、原始的な情緒があり、足利時代の点心としてのわらび餅は、わらびの根からとったでん粉を用い、きな粉や塩、砂糖をまぶして食べられていたものが、後世、葛の粉を用いるようになって、混同されたようです。江戸における葛餅は、くず粉に生麩粉を混ぜて用い、豆粉と糖蜜をかけて、人々に喜ばれました。

求肥のお菓子「お茶々もち」

求肥をつかったお菓子「お茶々もち」(新茶風味)

●求肥●

 求肥が江戸から伝えられたのが寛永年間のころといわれておりますが、最初の求肥は中国より京都へ渡来し、発達したといわれております。昔は黒砂糖、赤砂糖を用い、また、餅粉も精米しなかったので、色が黒っぽく牛の肌に似ており、「牛皮」「牛肥」と呼ばれていましたが、後日白砂糖が使われるようになってからは、下品ということで「求肥」に変えたとも言われています。また当時は牛肉食を嫌っていたので、変えたという説もあります。

(「清滝川」は夏限定で販売いたします)

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蒸し物の羊羹…「栗蒸し羊羹」 「藤花文」「鳳凰の舞」

流し物の羊羹…練り羊羹「東峰」・水羊羹「水羊羹」 「竹入り水羊羹」 「清滝川」

●羊羹●

 羊羹はもともと仏教文化がもたらした料理の一種です。本来は羊肉でつくった汁物の「羹(あつもの)」で、わが国には禅僧が伝えましたが、肉食を忌む日本では鎌倉時代、既に小豆を主流とした蒸し物を作り出し、汁の実として使われました。室町時代になると、茶道が盛んになり、点心としての羹が喜ばれるようになると、蒸し菓子として珍重され、後世の蒸し羊羹に発展しました。蒸し固める蒸し羊羹の仕法を、ところてんを加えることにより練り固める方法に変えたのは、岡本善右衛門でありました。

 江戸では寛政(1789〜1801)の初めに日本橋で喜太郎なる人物が、練り羊羹を作り出して評判になりました。

 現在の羊羹には、蒸し物の羊羹と流し物の羊羹とがあります。蒸し羊羹やそれに蜜煮の栗を入れた栗蒸し羊羹などは蒸し物に属します。流し物の羊羹は寒天と砂糖を溶かし、これに各種のあんを配合して流し固めるもので、練り羊羹や水羊羹がこれに属します。練り羊羹は19世紀の初めから、羊羹を代表するものとなり、今では材料、意匠に工夫を凝らした製品が全国的に作られています。

水無月・写真(毎年6月より販売) ●水無月●

6月30日は、菓子屋では「水無月」を売る日です。神社ではこの日の参詣人に茅の輪を鳥居に取り付けてくぐらせ、夏の疫病、水の災厄を除くために禊を行うのです。これを「水無月の祓い」「夏越の祓い」といいます。

 水無月は白の外郎生地に小豆をのせ、三角形に庖丁された菓子ですが、それぞれに意味がこめられています。水無月の三角形は氷室の氷を表し、6月朔日に氷室の氷を口にすると夏痩せしないと言われていました。氷の節句、または氷の朔日といわれ、室町時代には幕府や宮中で年中行事とされていました。小豆は悪魔払いの意味を表しています。

  ●椿餅●

 唐菓子から発達しましたが、当初の製法は干飯(ほしいい)を砕いて粉にし、甘葛煎(あまづらせん)をかけて固めて餅にしたものを、二枚のツバキの葉で包んだものでした。

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●かしわ餅●

 「かしわ」は古くは、食物を包んだり、覆ったりした植物の葉の総称で、「炊葉(かしぎば)」の転じた語ではないかと言われています。かしわの葉はしなやかで、食べ物を盛るのには都合がよく、古くから食器として使われてきました。江戸時代から、かしわ餅は端午の節句には必ず備えられ、桜餅とならんで、年中行事の中の代表的な和菓子になりました。
かしわ餅を包む、柏葉の表を内側に包むのは、あんのかしわ餅で、葉の表を外側に包むのはみそとする区別が多いですが、当家では2種のかしわ葉を使い分けております。みそあんの方は、砂糖利用以前の古い調理法の名残で、原型を平安時代の「葩餅(はなびらもち)」にまでたどることができます。さらに古い形は奈良時代の「伏兎(ふと)」に当たるそうです。

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●ちまき●   【粽の作り方】のご紹介

 中国の武人であった屈原(くつげん)が泪羅(べきら)という湖で水死した忌日が5月5日でした。その屈原の姉が弟を弔うため、竹の筒に米を入れ湖に投じて鮫竜(こうりょう)を祀ったのに始まるといわれています。
日本ではその風習を取り入れ、端午の節句にちまきを供えるようになりました。また、日持ちがして、手軽に出来ることから、携帯食糧としても用いられ、千巻・茅巻と称して、もち米を茅の葉や熊笹で三角形に包み蒸しあげて食しました。今日でも地方に現存しています。
茶の湯の発達、砂糖の渡来、製粉技術の導入により、製造方法が工夫・改良され、長い年月を経て源氏のちまきが完成されました。

●草餅●

 6世紀頃の中国では3月3日にハハコグサの汁と蜜を合わせ・それで粉を練ったものを疫病よけに食べる習慣がありました。平安初期でも、3月3日の節句にはハハコグサの餅を作っていました。ハハコグサのかわりにヨモギを用いるようになったのは室町時代からとみられ、幕府は将軍に対面する諸侯に、よもぎ餅と杯を下賜しました。

●ぼた餅●

 江戸中期に栄え、もち米、またはもち米とうるち米とを混ぜて炊き、軽くすり鉢でついたものを小さく丸めて、小豆あんやきな粉をまぶしたものです。

 ぼたん餅の訛った語で、別に「萩の花」または「萩の餅」「おはぎ」とも言います。いずれも形や色を牡丹や萩の花に見立てられたからだと言われています。


そば餅(こしあん)


柚子あん「豊太閤」


黄味あん「しほり」

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(黄味あん・そば餅・柚子あん)

●饅頭●

 中国で古くから作られていた蒸餅(じょうへい)の一種で、小麦粉をこねて皮とし、肉や野菜のあんを包んで蒸すものでした。中国でマントウといいますが、日本では〈頭〉を唐・宋音で読んで「まんじゅう」と呼んできました。

 中国の三国時代に蜀漢の宰相であった諸葛孔明が、人間を殺してその首を神に供えれば戦いは有利になるとの進言を退けて、羊や豚の肉を小麦粉の皮に包んで人頭に模し、人身犠牲に代えて蛮神を祭ったことに始まるという伝説が流布されており、蛮人の首にかたどったので〈蛮頭〉といい、それがなまって「饅頭」になったとされています。

 日本に饅頭が伝来した道は2系統ありますが、一つは薬饅頭であって、南北朝の後村上天皇の興国年間に、京都建仁寺の三十五世竜山徳見禅師が宋に留学したときに、北宋の詩人・林和靖(なせい)の末孫・林浄因という人が、興国2年(1341)に帰化し、奈良の二条村に定住し、家業として「奈良饅頭」をつくり、足利義政に献上しました。

 もう一つは酒素饅頭であり、鎌倉時代の中頃、四条天皇の仁治2年(1241)博多の津が中国貿易をしていた頃、中国の儒者で謝国明という者が貿易官として駐在していましたが、名僧聖一国師は謝国明と親交の間柄であったので、便宜を得て7カ年留学して宋から帰朝して中国の饅頭の製法を伝えました。

紅白薯蕷饅頭・写真

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●薯蕷饅頭●

 江戸時代中期の享保年間の茶会記に"薯蕷饅頭"の名が記されています。書物に現れてからでも、300数十年も経っています。

●葛饅頭●

 葛が菓子として使われるようになったのは、室町時代以降といわれ、江戸時代初期の頃の茶会記には「葛餅」の名が記されています。清涼感をそそる夏菓子にとって、葛はなくてはならない原料の一つです。水牡丹、深見草、葛桜、葛焼、葛羊嚢などに多く利用されています。

外郎を使った上生菓子「唐衣(からころも)」

写真上(上生菓子「唐衣」は5月中旬〜6月中旬のお菓子です。お買い求めはこちらから)

●外郎(ういろう)●

 外郎餅は外郎薬の口直しに始まります。1369年、中国の元の順帝が明に滅ぼされたとき、元の大医院礼部員外郎職にあった陳宗敬は寧波(ねいは)から博多に亡命し、外郎延祐(のぶすけ)と名乗り、保健薬「霊宝丹」を商いました。

 「霊宝丹」は頭痛をとり、口中をさわやかにするとして歓迎され、同時に頭髪の臭気を防ぐため、冠や烏帽子の中に入れても用いられました。薬は冠から透けてふくいくの香りを漂わせ、「透頂香外郎」と名づけられました。薬効は後小松天皇に聞こえ、足利義満の招請で宗敬の子、宗奇が上洛して薬を献上しました。その口直しとして添えたのが、黒糖と米粉でつくった菓子の外郎だったのです。

 後に外郎氏は5代目の右京亮(うきょうのすけ)宗治のとき小田原に下り、北条氏の客分となった。以来、薬菓両販で発展し、19世紀初めには菓子の外郎餅の製法は諸国に伝えられるようになりました。

  ●銀鍔(ぎんつば)・金鍔(きんつば)●

 京の清水坂あたりで天和年間(1681〜84)頃、売りに出されたのに始まります。うるち米を平たく円く延ばし、小豆あんを包んで焼いたもので、刀の鍔(つば)に似ているところから「銀鍔(ぎんつば)」といわれました。皮が薄く、あんが多い量感が庶民に大いにうけました。

 銀鍔の仕法が江戸に流れたのは享保(1716〜36)以降ですが、江戸では銀鍔が金鍔と名を変えました。小麦粉を固くこねて小さな粒に丸め、薄く広げてつぶしあんを包み、鉄板にのせて軽く表面を焼ぐだけの菓子で、屋台売りが多くいました。文化.文政年間(1804〜30)は金鍔の全盛時代となり、大いに発達しました。

●カステラ●

 有平糖が伝わったのと同じ頃、今から400年前、天正年間にオランダ人により長崎に伝えられた。カステラはスペインのカスチリャ(Castilla)王国が発祥地と言われます。つまり、カスチリャが訛ってカステラ(加寿天羅、家主貞良などに当て字されています)と呼ばれるわけです。

 カステラは茶の道に喜ばれ、享保年間の茶会記には「菓子カステラ」と記されており、また、当時珍な食べ方として・わさびや大根おろしを用いたという面白い事も記されています。現在のような日本人の、口に合うカステラが作られるようになったのは、明治中期になって原料が豊富に出回るようになってからです。

  ●打ち物●

 元来押し物は唐から伝来された「仙錦こう」でした。足利時代に創製され、江戸時代に完成された「白雪こう」も押し物類の別称です。当時は「押し物」「打ち物」と特に区別することはありませんでしたが、材料の分化や木型の発達に伴い、区別されるようになりました。

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食べられる抹茶茶碗「茶寿器」(干菓子)
などたくさんあります!

●落雁●

 穀物の粉を用い、砂糖・水飴等を加えて練り、木型に入れて押し固めたもので、中国では宋以前から同類のものが作られていました。それが日本に伝えられたようで、落雁は中国の「軟落甘(なんらくかん)」という菓子にあたるものだとしています。初期のものが白地にゴマを配していたため、近江八景の堅田の落雁になぞらえての名とされていますが、軟落甘を略してそれに風雅な字をあてたものとも思われます。

 足利末期には、茶道がようやく盛んになり、酒落た趣味が喜ばれました。生砂糖を用いた干菓子は文化五年(1808)に、京都の菓子職人が山芋の液を巧みに使い、生砂糖と片栗とによって、美しい干菓子を作ることに成功し、二条城や徳川氏を通じて御所にも献上されました。落雁は京都を中心に発達し、精巧微妙な木型に、各種の色彩の種を入れて数々の豪華な「打ち物」が創られた。徳川期後半の文政期(1804〜20)になると、世相も華やかな時代を迎え、木型も大きな型が出現して、祝い用や、献上菓子に用いられました。

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種菓子 「花ごろも」
  「麩焼せんべい」
京風煎餅 「菜々」
塩煎餅 「あられ」
最中 「月鴨」
●煎餅●

 古くから中国にあったもので、煎餅の文字は唐菓子の中にみることが出来ます。奈良時代からの食物であったと考えられますが、『和名抄(わみょうしょう)』はこれを「いりもち」と読み、小麦粉をこねて油で焼き、あるいは揚げたものだったようです。

 煎餅の発達はなかなか進まず、間食としての菓子の性格を持つようになるのは室町時代以降になります。秀吉の大阪城の茶会記にたびたび見られるようになりますが、その価値が本格的に認められ、名物煎餅が現れてくるのは、江戸時代に入ってからです。ただし、この時代の煎餅はみな油を使わず、型焼したり、巻き上げて焼いたりしたものでした。

 後世になって、餅を煎餅型に焼いたものを、種菓子(たねがし)、菓子種といい、その間に羊羹やあんをはさみ、「色紙」「最中」というものが生まれ、砂糖の刷り込み模様や焼印を押すようになり、茶菓子の干菓子に多く用いられています。このように煎餅は餅から離れて、小麦粉と砂糖と卵による卵せんべい(京風煎餅)と塩せんべい(いわゆる関東風煎餅・おかきなど)が主流となりました。

●有平糖●

 約400年程前(1570年頃)ポルトガルより長崎に輸入された南蛮菓子の中に「アルヘイトウ」がありました。ポルトガル語のアルフェロア(ALFELOA=砂糖の意)が訛ったもので、これが有平糖(阿留平糖、阿屡閉糖などと当て字されています)の源と伝えられています。京都へは江戸時代前期(1638年頃)に伝えられ、砂糖が出回る江戸時代中期になって、色彩や形状の変化を加えて美麗な意匠を凝らした細工菓子が珍重されるようになりました。今日のような技術細工を施した有平糖が完成されたのは、明治初期になってからといわれています。

  ●生砂糖(きざと)●

 生砂糖は元禄・享保時代に始まり、献上菓子から生まれ、京都で発達した菓子です。

●餅●

 もち米を蒸し、つきつぶして成形したものをいいますが、米・あわ・きび.葛の根・木の実・栃の実など穀物からも作られました。米の粉をこねて作るのも広く餅とよび、種類も多くみられました。餅の文化は稲作文化とともに東南アジアから伝わり、日本では特有の餅文化をつくりあげました。

 奈良時代には、餅は貴族の菓子として用いられたようです。平安時代になると、「もちひかがみ」といって鏡に重きがおかれ、鏡餅がつくられました。また各地の行事食が確立し、一月の餅粥、三月の草餅、五月のちまきや柏餅なども見られます。この時代には米粒を蒸して描くつき餅のほかに、各種の材料を加えた餅や粉類を用いた粉餅がみられました。鎌倉時代には、ぼた餅、焼き餅、ちまきなどの餅菓子が一般化しました。よろいやかぶと(具足)に鏡餅や海老・のしあわび・昆布・橙(だいだい)・稲穂などを供えた具足餅もつくられました。

 慶長の役の時、島津義弘が高麗餅をもたらすなど餅を使った菓子は全国に広まりました。江戸時代には餅がますます一般化し、年中行事には餅菓子が使われ、諸国の街道筋には名物餅ができた。

 餅は兵糧としても重用され、弁当として携行されたつ、食糧の乏しい冬の間の保存食や主食としても重要でありました。


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